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美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!

美の巨人たち 藤田嗣治「秋田の行事」 触れれば、粉雪のように溶けてしまいそうな「乳白色」。パリを舞台に活躍した画家・藤田嗣治の代名詞とも言える色です。しかし、パリを離れ長い旅路の果て、日本に帰国した際に描いたこの作品で、画家の絵は驚くべき変ぼうを遂げていました。今日の一枚は、藤田嗣治作『秋田の行事』。縦3m65 cm、横20m50cmの大壁画です。描かれているのは、秋田の静かな暮らしと熱狂の祭り。画面左には、雪深い秋田の情景が広がっています。穏やかで慎ましい、人々の営み。しかし、小さな橋を越えるとその風景は一変し、鮮やかな色彩が踊り、熱狂と興奮がほとばしっています………

 ………

 藤田の画業の転機とも言える大作が残されています。金箔の上に描かれた乳白色の群像、パリ時代の絶頂期に描かれた壁画です。(「欧人日本へ渡来の図」《1929年》)
 しかし……

 「壁画というと多くの人に見てもらわなければいけない。ちょっとやっぱり引いて見ることが多いと思うんですね。ですが、乳白色と同じようなやり方だと線が生きてくるということは少なくて、接近しないとその良さが分からない。本人も納得出来なかったんではないかと思います。周りの評価、依頼主の評価が思ったより低かった」(解説)

 藤田が生み出した乳白色は巨大な絵には向かなかったのです。

 「私は1931年 欧州の空気に押し潰されて どうしても南米の大空を 心行くまで吸って 晴れ晴れしてみたい」

 それが放浪の始まりでした。パリの喝采も栄光も捨てて。


 藤田嗣治の旅藤田嗣治放浪の足跡です。目くるめく未知の風景の中で、人々を見つめ、自分自身を見つめる模索の旅です。
 画家の絵はこうなりました。(「町芸人」《1932年》)、(「カーナバルの後」《1932年》)

 繊細な線も乳白色の官能もありません。熱を帯びた強烈な色彩が踊っています。
 そして藤田はメキシコで運命的な出会いをするのです。革命より端を発した壁画運動に強い衝撃を受けたのです。

 「当時壁画ブームと言うことか 大きい作品、壁画が多く描かれた時代ですけれども。メキシコの歴史が展開し、社会的なメッセージが込められた壁画なんですけれども、そういったものを藤田は見て、日本に帰ってくる」(解説)

 2年に及んだ放浪を追え、藤田は帰国します。東京は関東大震災から10年が経ち、近代的な都市へと復興を遂げていました。新たなビルを飾る壁画の依頼が藤田の元に寄せられます。しかし求められるのはパリの藤田、乳白色の藤田、不満と鬱屈が蓄積していきます。
 そんな時、思いがけない依頼が舞い込むのです。
 (1936年夏)秋田の素封家、平野政吉、藤田の絵に魅せられた彼が秋田に美術館を作るので、そこに飾る絵を描いて欲しいと切り出したのです。その時、藤田に天啓のように閃いたのは、メキシコで見た壁画でした。
 いまこそ歴史と文化を表現する壁画の時代である。ならば、秋田の全貌を描きたいと。藤田は何度も秋田を訪れ、その暮らしと風景を見つめ、半年かけ、構想を練りました。しかし、残されたスケッチは僅か10数枚。すべて脳裏に焼き付けていたのです。アトリエは平野家の大きな米蔵を改装し、5枚の巨大なキャンバスを用意しました。朝8時から夜の8時まで、毎日12時間。藤田は恐るべき集中力で描いていくのです。
 そして174時間後、完成。驚異的とも言える速さでした。藤田は秋田の息遣い、におい、流れる時間の吐息さえ漏らさず描きました。長い放浪の果てに掴んだ大壁画の群像。そこに画家が込めたものとは。

 秋田と言う土地に寄せた藤田の言葉です。

 「嬉しい吾が郷土にのみ誇り得る純情さが この厚い雪のお蔭で埋れて 当分は保有されていくであろう」(随筆集「地を泳ぐ」、1942年、書物展望社)

 美の巨人たち 秋田の行事の展示そして画家はこの絵にあっと驚く仕掛けを施していたのです。ヒントはこの絵の端の部分。

 今回の取材中、一人のご老人と出会いました。Y.Mさん、御歳、92歳。秋田で生まれ、秋田で育った人です。今でも折あれば、この絵を見ることを何よりの楽しみにしていると言うのです。その理由を伺うと、

 「あの鼻かんでいる子供、あれ見るとねえ、子供の頃、お母さんにごしゃかれた(叱られた)ことを思い出しますねえ。この絵を見ると音の世界が甦ってくるんです。鳥居をくぐっている梵天、掛け声がジョヤサ、ジョヤサ、ジョヤサ、ジョヤサ、それから犬のけんか、ワンワン、ワンワン、ああいう野良犬がいっぱいいました。三人の女の人が踊りやっているでしょ、キタカサッサ、ドン、コイナーなんていうふうな秋田音頭の音が聞こえてくるんです」

 さて、音が聞こえて来るとは一体どういうことなのでしょう。実はそこにこそ画家の仕掛けが秘められていたのです。一体どんな。

 秋田の行事は、100人の群像と様々な風俗を20メートルと言う巨大なキャンバスに描いたものです。しかし、ただ大きいという訳ではありません。よく見るとこの絵の両端は少し湾曲しているのです。
 極端にすれば、こんな具合でしょうか。

 「平野家に伝わっているエピソードなんですけれども、『湾曲させて設置するように』と藤田から言われたというふうに伝わっています」(解説)

 その理由はこの絵の中央に立つと分かるかも知れません。注目すべきは構図です。
まずは画面の右手、描かれた屋台は右奥へと続いています。その隣、梵天祭でも階段を駆け上る男達が右奥へと一直線に突き進み、中央に描かれた竿灯祭りの花笠の棹はほぼ後ろへと倒れ、奥行きを作っています。橋を越えた左側の画面も同じです。人物や馬などの配置は左奥へと描かれているのです。かまくらの入口も中央に向いています。つまり、正面に立ってこの巨大な壁画を見ると、絵は左右奥へと広がりを見せ、まるで、パノラマを見ているように包まれるのです。この臨場感こそ、藤田の狙いだったのかも知れません。

 「乳白色の作品では浮世絵的な平面性といいますか、そういったものの追求がなされていたのですけれども、壁画のような色彩を用いる作品におきましては、三次元空間と言いますか、奥行感を出すことに注意が払われている」(解説)

美の巨人たち 平野政吉美術館 戦後、藤田はパリに戻ります。そして、二度と「秋田の行事」を見ることもなく、静かにその生涯を終えるのです。

 それは巨大な壁画です。祭りの赤、空の青、雪の白、放浪の果てにたどり着いた一枚です。
 吐息が聞こえる。熱気が伝わる。
 藤田嗣治作「秋田の行事」。
 パノラマの叙情。


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 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)



 秋田県は、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を、今年6月末日をもって閉館しようとしています。
 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館することは、平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史を閉じることと同じです。
 二人の交友の末、藤田の助言を採り入れ完成した美術館から、「秋田の行事」、平野コレクションを移すことは、貴重な文化を消失することを意味します。
 全国の皆様、秋田県に、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館を止めるよう、訴えてください。
(2013年5月15日)




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